明けましておめでとうございます。
コメント本当に本当にありがとうございます。
昨年11月末に盛岡に旅行に行ってきました。
盛岡城跡の高台から市内を一望して
遠くの山の向こうの被災地を思ったり
わんこそばにチャレンジしたり
伝統工芸品を見たり
陸前高田出身のかたの経営する居酒屋に行ったりとっても有意義な2日間でした。
お仕事以外で岩手に行ったのは
震災以降初めてでしたが道路が隆起していたり
屋根が壊れている家屋を見つけると
ついじっくり見てしまうクセがついてしまいました。
募金箱にお金を入れたり、お土産ものをたくさん買ったり
今の自分に出来る支援をしてきましたが、東北のお食事はおいしかったし、景色はきれいだし空気も澄んでいて
会う人会う人が優しかったりで
やっぱり大好きな場所だなぁと思いました。
陸前高田には1月に入ってから
先日ですが日帰りで仮設住宅とボランティア団体の方対象の健康診断のお手伝いに行ってきました。
風邪をひきやすくなった、眠れなくなった、
色々思い出すと抑鬱状態になるなどの症状の訴えが多く聞かれました。
陸前高田の景色は被災した建物はもうほとんど撤去されて高い建物は見当たらず
草の生えた更地が果てしなく続いていました。所々に少しずつ、かさ上げした場所に家も建ち始めていました。
一本松も姿を変えていて
本当にがらんとした景色になっていました。
今でも重機やトラックが入って復興のお手伝いをしている業者さんがたくさんいます。
風化していく今も一生懸命頑張っている方々には本当に頭が下がります。
こういう縁の下の力持ちのお仕事をしている方の特集とか、
もっとメディアで伝えるといいのになぁと思いました。
沿岸部の復興はまだ時間も、国や世界の協力や理解も費やしていかなければならないと思います。
みんなが納得する暮らしになるまでどのくらいかかるのか、
まだまだ沢山いる行方不明の方がみんなちゃんと待つ人たちのもとへ帰れるまでにどのくらいかかるのか。
笑顔の裏の寂しさや悔しさや虚しさは計り知れないくらいだろうし
たまに来る医療者にどこまで本音で話してくれてるのかな、と
相変わらず自分の無力さで今回もいっぱいでした。
ちょっとでも笑顔になってほしくて
銀杏の葉をつけた栞を手作りでたくさん作って配って来ました。
黄色い栞に手書きで小さくスマイルくんの絵を書いてみました。
一人一人と話して盛岡に行ったことやわんこそばをお腹いっぱい食べて
本当に苦しかった話など他愛もない話をすると
笑ってもらえたり自分が盛岡に行った時の話を聞かせてくれたりと
医療以外での時間が今回は特に有意義だったような気がします。
ボランティアの人たちが少なくなってきたという声も聞かれました。
今は力仕事は専門の業者さんたちが入っているので
これからはもっと気軽に、被災地の語り手さんの話を聞くツアーなどもあるそうなので
それらに参加しながら復興商店街で買い物をして現地の人たちとお茶を飲みながらお話するという素敵な復興支援が出来ると思います。
東北の春は遅いけど、
寒さを耐えて咲くお花や桜は見事なものです。
私も次は春にまた個人的に旅行に行こうかと考えています。
東北はこれからが寒さの本番。
何をするにも全ては健康第一、
お身体に気をつけて過ごして下さい。
☆とまとさんへ☆
コメントありがとうございます。
この仕事を続けている理由…
パッと思い浮かばないくらい特に理由はないです。
あるとしたら、この仕事しかしたことがないから他の仕事をする勇気や知識がないから漠然と続けているのかも知れません。
看護学生の時からあんまり真面目じゃなくて今もズボラな性格だから
なんとなく続いているんだと思います。
あと、私もあんまり笑顔は得意じゃないほうです。
だから常にマスクしてピリピリムードで笑顔も少ない救急が自分に向いていると思っているんですよね。
今は看護師としても色んな働き方があります。
例えば派遣に登録しておいて
自分のあいている日に健康診断の単発のアルバイトや訪問入浴のアルバイト、修学旅行などの添乗員ナースとかもあります。
ナースをやっぱりやりたい気持ちがあるならそういう勤務スタイルもあるし、そういうのも立派なお仕事のひとつだと思います。
パワハラはきっとナースのお仕事以外でもつきものだと思います。
デリカシーのない人はどこにでもいますよね。
私も多分、それってパワハラだよね的なことも随分言われてきたし、
今でもたまにあります。
言われ慣れて「うるさいなー」って聞き流す域に達したみたいです。
でも、世の中、悪い人ばかりじゃないし
自分に合った職場環境の病院もあると思います。
ゆっくり単発のアルバイトをしながら色んな職場や色んな人と関わってみてこれからのことを考えていっても
長い人生まだまだやり直し可能だと思います。
色んなライフスタイルや働き方があるから思いつめないで。
とまとさんを認めてくれる人はきっと必ずいます。
出来るなら一緒に働いて何か言ってくる人がいたらガツンと言い返してあげたいくらいです。
アドバイスになっていないかも知れませんが
とまとさんの気持ちが少しでも軽くなるように応援しています。
日に日に寒くなり本格的に冬到来ですね。
すっかりご無沙汰してしまいましたが仕事に趣味と相変わらずな日々を送っています。
先日、遠野まごころネットの大槌町副理事長のかたとお会いする機会が偶然ありました。
震災後に価値観が変わったことや家族や友達の大切な存在を再確認したことをお伝えすると
本当に賛同していただき、副理事長さんから現在の大槌町の復興の状況や自分の気持ちなどを教えてもらうことが出来ました。
子供や身内を亡くされたかたを前にただ抱きしめることしか出来なかったけど
抱きしめることで悲しみを分かち合ったことは私が被災地に行ったときに見てきたこと、してきたことに繋がっていました。
目の前で真っ黒な濁流に飲まれて助けを求める人の話や
自らも海水に浸かりながら、でも、生還した「生かされている意味」など、あの日の記憶というか私自身もその場にいるような恐怖に包まれながらも
副理事長さんの想いが痛いくらい心に刺さりました。
仮設住宅での離婚が増えている話もビックリでした。
きっと3.11で仕事先や自宅にいてすぐに会えなくて
でも会えた時絶対嬉しかったはずだし、家族の絆や信頼も深まったんじゃないかと勝手に思っていました…。
副理事長さんのお話では、理由はそれぞれあるだろうけど、希望が持てなくなって離婚が増えたのだと。
今、何が大事なのか漠然と 考えてしまいました。
自分に置き換えて考えてみたら、
やっぱり希望や目標があってこそ、
私も仕事や困難な状況を乗り越えてきたなぁって。
どんな小さい希望や目標でも、それが背中を押してるんだよなと思いました。
12月には予防接種のお手伝いと健康診断で陸前高田に行くことが決まっていますが
自分に出来ることはそういう医療を提供することぐらい…。
たくさんの方とお話をして希望は与えられないけど、笑顔になれるような時間を作れるように心がけたいと思います。
あとは今月末に私用で盛岡に行きます。お仕事じゃないので友達と観光や東北のおいしい料理を満喫してきます☆
私事ですが来年に結婚することになりました。
震災後すぐに被災地に行き、そこで価値観と人生観が変わって
家族という存在についてずっと自分なりに考えていて、そばにいて大切にしてくれる人をもっと大事にしなくてはと思い、そこに至りました。
被災地には二度目の冬、
どうかお身体に気をつけてお過ごし出来るよう願っています。
先ほど陸前高田でお世話になったかたからメールがあり、
一年3ヶ月ぶりにお父様が見つかったとの報告をもらいました。
所々破けていたりしていたけどあの日のままの服装、
時間の経過から目を背けたくなる状態ですが家族には分かる残る面影、
ポケットに入っていた財布、
手術の跡などからお父様と判明したそうです。
これから本人確認と断定するためDNA鑑定を経て、ご家族のもとに帰れるのは1ヶ月以上先になるそうです。
でも、その知り合いのかたも「あきらめていなかったから、お帰りなさいって気持ちでいっぱい」とのこと。
久しぶりに嗚咽するまで泣いたと言っていました。
「冬を越したりで寒かっただろうし、1人ぼっちで寂しかっただろうと思うと申し訳ない想いだった。
お父さんの手術の跡を見て、あんなに大怪我をして助かった命なのに津波で命を奪われたことは本当に悔しい」
安堵感と同時にまた悔しさや無念さも蘇ってくると思います。
その悔しさや無念さを私たちは無駄にしてはいけません。
たくさんの尊い命が教えてくれたこと、今この時期だからこそ改めて考えることが必要だし
私たちが出来る大切なことだと思います。
まだまだ大切な人を探し続けている人がたくさんいることも決して忘れてはいけない事実です。
来週は動物好きな仲間に誘われ、避難区域の動物のボランティアに行ってきます。
かなりつらい現場の牛舎の清掃もしてきます。
写真などを撮らずにまた拙い文章で
状況を報告出来たらと思います。
去年のクリスマスに再び陸前高田に行くことが出来て、避難所にいた方々やずっと会いたかった瑠奈チャンにも会うことが出来ました。
今は関西方面で暮らしている瑠奈チャンはあの頃より背も高くなって随分お姉さんになったように見えました。
久しぶりの地元、お友達、知り合いに会えてずっと恥ずかしそうにしていた瑠奈チャンは
私を見つけると飛んできて、あの時みたいにずっと手を握ってきました。
おしゃべりだった瑠奈チャンは引越した当初、東北訛りがあるので新しい場所でなかなか会話に入れず、控えめな性格になってしまったけれど持ち前の明るさでだんだん馴染んできたとのこと。
でも母親のことは自分から話すことがなく、夜になると布団の中で泣いていたり、街で親子連れを見かけると立ち止まって振り返って眺めていることがあると叔母さんが教えてくれました。
子供ながらに大人に気を使い、心を閉ざしているのでは・・・と小さな手をつなぎながらとてもやるせない気持ちになりました。
避難所や診療所での健康診断の手伝いを終えて時間があいたので、ボランティアの方々が洗浄してくれた写真を保管している公民館に瑠奈チャンと一緒にお母さんの写真を探しに行くことが出来ました。
今では写真や思い出の品を探しに来る人の数もかなり減ったそうで、その日も私と瑠奈チャンがいた時間は誰も来ることはありませんでした。
アルバムにたくさんあった思い出の写真も全て流されて、瑠奈チャンとお母さんの写真はネームの裏に貼っていたプリクラだけになってしまい、どうしても写真を見つけてあげたかったけど、莫大な量の写真の中からその日は見つけることが出来ませんでした。
たくさんの洗浄された写真には、その人たちの何気ない日常が写されたものや、特別であろう日、旅行に行って笑ってるものや、モノクロの写真など、多くの方の思い出や記録の宝物ばかりでした。この写真が探している人や持ち主のもとに一枚でも多く戻ることを願いました。
避難所に指定されながら、そこに避難した200~300人が犠牲になった市民会館にも行き、献花台に手を合わせてきましたが、献花台も瓦礫がそのままの市民会館も当時のままで復興への道程は長くなることも感じました。
ずっと一緒に行動していた瑠奈チャンは平地となった陸前高田を歩いているとき笑顔はありませんでした。
瑠奈チャンは「自分の家があったところに行きたい」と言って叔母さんに案内してもらい、今は基礎しか残っていないその場所に行ったときにため息をつき泣き出す姿に、やっと感情を出せたんだねとちょっとホッとしてしまいました。
その後にたくさんのサンタさんからプレゼントをもらって嬉しそうにみんなに見せる子供らしい笑顔が、ずっと続くといいなぁと心から思いました。
被災地はきれいにはなっているけど、止まったままの時間や癒せきれない心はあのときのままです。
私たち医療チームの役割も変わってきました。
継続は力なり。
来週末にまた医療支援に伺います。
明日で3・11から一年。 行方不明者はいまだに3000人以上。
私たちは何を思い、どう過ごすのでしょうか。
先日やっと厚生省へ年間の被災地医療支援のレポートと今後の課題と政府に取り組んでほしい事例をまとめたものを提出しました。
とにかく被災地にひとつでも多く
病院や診療所を建ててほしいし
理想は各仮設住宅の中に診療所を設けてほしいのですが国は国外のことにばかり目を向けがちな今、どこまで動かすことが出来るか。
ひとつになったとは言っても小さな医療支援チームの意見。
必ず実を結びますように。
瑠奈チャンは今、遠く離れた関西の親族のもとにいると
陸前高田にいる瑠奈チャンの叔母さんより連絡をいただきました。
あまりに大事にしすぎてお母さんが命をかけて守ったお人形のひとつを最近無くしてしまったそうで
瑠奈チャンも元気がないと聞きました。
100人サンタの話を教えていただいたので
瑠奈チャンへクリスマスには陸前高田の叔母さんのところに泊まりに来るようにすすめてもらいました。
叔母さんからサンタさんがたくさん来ることは内緒にしてもらい、
小さなお人形を無くしてしまった瑠奈チャンにまた新しい大切なものがサンタさんから貰えるように、
そして何よりも心から笑って欲しいと願います。
震災後に月と星がきれいだった夜に
避難所の体育館から寒い外に出て、
家族の誰かや友達を亡くした子供たちが
「さっき届いた絵本に死んでしまったらお空の星になるって描いてあったよ。あの光ってる星が、じいちゃん。」と泣いていた悠くんも
「大人になったら飛行機に乗って星に行ってみんなを迎えにいく。
そして津波に流されない家を建ててあげる」と言って大人を泣かせたじゅんくんたちも
みんな笑顔になれるといいなぁ。
私もその付近に陸前高田の診療所と病院に医療支援に伺う予定なので
瑠奈チャンや避難所でお世話になったみなさんに会えるのが楽しみです。
日に日に寒さも増して来ましたが
風化に拍車がかからないように
まだまだ出来ること、思うことをみんなで今まで以上にしていきます。
あの頃と比べたら支援の仕方や必要としているものが変わってきています。
今年が終わるからと言って
3.11はリセット出来ないことのひとつ。
少しでもあったかい気持ちや
笑顔になれることを見つけていきたいです。
9月の終わりに健診と病院の夜勤のお手伝いで南三陸町に行きました。
震災直後と今とでは医療従事者の役割もだいぶ変わってきたように思います。
南三陸町にある土手に上って景色を見渡すと
果てしなく続く更地と所々に集められた瓦礫しかありませんでした。
たくさんの職員のかたが犠牲となった役所も通りましたがTVで見ていたよりも
はるかに大きく本当に見上げるほどの建物でした。
健診は希望者がとても多かったけれど順調にすすみ、
仮設のほうもまわって診療介助にあたりましたが震災直後に比べれば環境はよくなってるように見えますが
まだまだ赤ちゃんやお年寄りのかたがたが生活していくうえではこれから来る冬対策も兼ねて改善していく面や予防接種の被災地無料化など挙げられる問題点がたくさんありました。
東京に帰ってそれらを政府に届けるためのレポート作成も今やっているところです。
今回、私と同じ年であの3・11に一瞬にして旦那さんも子供も両親も
妹夫婦も家も職場も同僚も何もかもを失ってしまった人に出会いました。
「半年たってもいろんな人に励まされても全然良いほうに今でも考えられない。今は仕方なく生きてる、早くあっちの世界に行きたいけど、一周忌、三周忌だ、ってみんなで仕事を残して行っちゃったからそういうのをこないていればいずれあっちで会えるからね。
でもなんで私も死ななかったんだろう。それが悔しい。」
と言っていました。
何の苦労もなく平々凡々に生きている私には想像を絶する絶望です。
携帯を見つめながら「登録してる人、ほとんど死んじゃったんだよ」と泣いている彼女にかける言葉はみつかりませんでした。
ずっとそばで背中をさすっていたときにやっと見つけた言葉が「友達になろうよ!」です。
時が止まったままの彼女の携帯に私の連絡先を登録してもらい、
気が向いたらでいいからいつか遊びに来て!と小さな約束をしました。
彼女も笑顔が見れたとき本当に嬉しかったです、一瞬でも。
被災地のみなさんは強いなって思っていたけど、踏ん張っていないとどうしようもない現実に負けちゃいそうだからなんですよね。
でもずっと踏ん張ってると体も心も疲れてしまうから
今は寄り添える「人」や「音楽」や「本」だったり「ペット」だったり「思い出」だったり
そういうのが大事な時期に突入していることを実感しました。
誰かの支えになるということは簡単なことじゃないけど
何気ない一言やしぐさでも伝わることもあると思うし、自分も誰かに支えられて誰かを支えられるような存在でいたいと思いました。
悲しみや絶望の中、そんな中でも前を向く勇気を持っている人たちとの出会いは小さなことで挫けてしまう私に色んなことを教えてもらう気がします。
だからこそ、私に出来る医療支援という形でこれからも出来ることはどんどんやっていこうと思う。一日も早い復興のためでもあるし、自分のためにも。
南三陸町の方々が言っていました。
「こんなに悲しい震災を忘れられていくことが一番つらい」
これから冬が来ます。もっともっと出来ることがあるはず。
★ドリカムのコンサート、楽しかったです!!
オープニングから「何度でも」で、イントロが聞こえた時点で化粧が全部落ちるくらい泣いてました。
歌に励まされて腕まくりをしていたあの頃が鮮明に蘇って
どんなに頑張ってもどうしようもないことがいっぱいあったあの夜や、ダメだと思っても明日は何か変わってるかもしれない、奇跡が起こるかもしれないって言い聞かせていた自分や
寝ないで物資や医療機器を運搬してくれた運転手さんや
全員に国民栄誉賞をあげたいくらい本当に本当に頑張っていた自衛隊のみなさんや
励ましてくれた仲間や家族、そして、ずっと心は繋がっている陸前高田のみなさんを思い出して周りが心配するくらい泣いていました。
たくさんの素敵な歌にいっぱい背中を押してもらって泣いたり笑顔になったり、
そして何よりもコンサートに参加出来ることは当たり前じゃなく幸せなことなんだって感謝の気持ちでいっぱいでした。
残暑が厳しい中、震災から半年が経過しました。
あれから災害医療をもう一度改めて勉強しなおし、職場環境に悩みながらも衛生と感染看護の資格も取ろうと思い研究と臨床の毎日です。
ちょうど半年の9・11に気仙沼で看護師をしている友達に近況を聞いてみました。
「半年経過しましたが、あっという間でしたか?長かったですか?」
その返事は「長かった。今もまだ状況は良くなってないから長く感じる」とのことでした。
報道や特集が減った今もなお、向かい合って頑張っている人がまだまだたくさんいるし心の傷が癒えることはずっと先のことだと思います。
先日ニュースで陸前高田で希望のひまわり畑の特集を見て、少しずつきれいになっていく景色やお世話になったかたの元気そうな姿や瑠奈チャンと同年代の子たちがひまわりの種を植えている姿に涙が止まりませんでした。
私の実家でも祖母が毎年ひまわりを植えていて種もたくさんあったので陸前高田のひまわりプロジェクトに種を提供させていただいたので、あの中で咲き誇ってるひまわりのどれかは繋がってるんだなと思うと自分の故郷と第二の故郷がひとつになった感覚で嬉しかったです。
今月中に被災地に再度訪問させていただきますが今回は南三陸に数日間ですが行って来ます。行く目的もだいぶ変わりました。健康診断や現時点で不足している看護体制の把握で行かせていただきます。
年内には福島へ健康診断にも行くことが決まっており福島も大好きな県なので少しでも何か出来ればという気持ちで放射能に関しても正しい認識を学ぼうと思っています。
ま、こうやって近況を報告していると勉強ばっかの真面目人間に思われそうですが趣味や気分転換で出かけたり遊んだりもしていて親に心配されています。
明日はドリカムのコンサートへ行って来ます!!
あのときいっぱい背中を押してもらった「何度でも」聞けるといいな。絶対泣いてしまう。
でもあのときに聞いていた心境と今とでは全然違う心理だけど
背中を押してもらえるということは変わらない。
たくさん大好きなみんなやお世話になった方々、家族の顔が浮かんでくると思うけどきれいな涙を流せると思います!
寒くてバスタオルに包まって凍えていたあの日から
今の猛暑日が続く毎日を過ごしていると
時間の流れや季節の移り変わりを感じます。
定期的に送ってもらえる被災地の映像や写真はあの日から大きく変わることはなく、
まだ5ヶ月、もう5ヶ月と月日のとらえ方も変わっていきます。
医療支援に行かせていただいた陸前高田の避難所も閉鎖になり
皆が仮設住宅や他に引っ越して行きました。
起きてしまった災害に怒りと悲しみをぶつけようがなくみんなで涙を流した避難所。
そんな中、再会出来て喜びと安堵の涙を流した避難所。
これからのことを皆で話し合い途方に暮れた避難所。
途方に暮れた中でも
小さな希望や幸せを見つけたり探した避難所。
寂しいときも誰かが必ず気が付いてくれて寄り添った避難所。
そんな避難所が閉鎖になるのは寂しい気持ちもあり、
皆が仮設でも住まいを確保出来た嬉しさもあるけど
避難所がなくなったことで「これから」訪れる孤独や不安に対する気持ちの持っていき所やそれに対するケアが行き届くことが出来るのか
問題や課題も山積みで心配です。
私達の役割や存在ももっと見つめ直していかなくては。
お盆の時期できっと犠牲になった方々の御霊が天国から帰ってきているはず。
きっと大切な人のそばで花火を一緒に見ていたと思うし
そっと背中を押してくれていると思います。
5ヶ月もたてば色々と状況は変わり、
私の周りの環境も少しずつ変わって来ました。
その環境に我慢出来ずに
このお仕事を辞めようか迷っていたりしました。
でも、そんなときに
コメントを見ると頑張ろう!!という想いが強くなりました。
また被災地に行く約束も果たせてないので、
それも年内には実行しなくては!!
もっと勉強もしなくては。
そこにはゆっくりだけど復興に向かっていること
何も変わらない街並みと国からの支援
陸前高田を離れていく人たちのこと
いまだに親族が見つかっていない人がたくさんいること
減っていくボランティアや報道陣の数にこんなにも早い風化への足音
そして瑠奈チャンのこと
瑠奈チャンは最近になり
関西か九州の親戚のもとに引き取られて行ったそうです。
叔母さんと一緒に暮らしたかったそうですが
叔母さん宅も何も残っていない状態で家族が増えても瑠奈チャンを養っていけない現状だそうで一番瑠奈チャンが不自由なく生活出来る環境ということで
遠く離れたところに引き取られて行ったそうです。
叔母さんの気持ちも痛いくらい分かるので
きっとこれが一番いいかたちなんだと思います。
瑠奈チャンはぼろぼろになったキティちゃんのマスクやミッフィーちゃんの小さなちゃぶ台と必死にお母さんが抱えた瑠奈チャンの大切なものがたくさん入ったリュックだけ持って
陸前高田を後にしたそうです。
今後、大きくなった瑠奈チャンにどこで会えるか分からないけど生きてさえいれば必ず会えるのでずっと気にとめていこうと思います。
瑠奈チャンのこれからの長い長い人生が
たくさんの笑顔と優しさに囲まれているように願います。
瑠奈チャンだけでなく被災地の皆さんの人生も同様です。
今も陸前高田の避難所がテレビに映ると私が行っていた期間一緒に過ごした方々の顔が見受けられます。
元気そうな顔に安心するけど、
まだ仮設や住む場所が確保されていないのかという思いも強くなります。
お手紙にも書いてあった
まだ3ヶ月を迎えるような時期なのに風化に向かう足音への恐怖を
被災地の方々は抱いています。
これから梅雨や夏に向けまた山積みとなる課題に備えた復興を考え、
行動していきたい気持ちでいます。
1ヶ月はあっという間に感じたけど2ヶ月を迎えるのはちょっと長く感じました。
止まったままの時間
動き出した時間
あの日より良くなったこと
悪くなったこと
感じ方も経過していく時間の長さ短さも人それぞれだけど
こうした節目で必ずみんなで考えたり思い出す時間にしていかなくてはと最近よく思っています。
今朝5時代に緊急地震速報が出て空振りだったけど、世間が忘れそうになると警告が出るような気がします。
ある知人が「地震速報はだいたいあてにならないしうるさいから解除した」と言っているのを聞いて
これも世間の関心が薄れていく実情のひとつなのかなと思い、危機管理がまた緩くなっていくことや
あれだけの犠牲になった尊い命が伝えてくれたことをいかされなくなるのがやるせなく感じ、
かなり強い口調で注意してしまった。
ちょうど1ヶ月経つときにブログの記事は削除しましたが
女川にお嫁に行った友達に看護学校の同期のみんなと会いに行きました。
一家全滅で友達にも一番受け入れたくなかったかたちで会うことに。
いつも笑顔でその場を明るくしてくれた友達は恐怖に怯えた顔で亡くなっていました。
大好きな旦那さんの隣にそのまま埋葬されるのをみんなで呆然と立ち尽くしてその場に居合わせることしか出来ませんでした。
どんなに無念だったと思うと涙が出てきて止まりません。
あの日からいろいろ考えて自分が「生かされている意味」もよく分からなくなるようなことばかり。
「生きていく義務」だと思えばちょっと何か見えてきそうな気もするけど。
あれからの救急部は災害対策のマニュアルの大幅な見直しに追われたり
被災地に行っているチームと連絡を取り合い、新しい情報をどんどんもらっています。
でも現実はGWを節目に医療チームが大幅に撤退した被災地や避難所も多く、
これから梅雨にかけての衛生管理が悪くなることにより問題も増えていく中、
検討や対策がまた必要だと思います。
明日は看護の日。
看護大学のイベントに参加したあとに夜勤入りの予定です。。。
一緒に松島へ一泊旅行に行ってきました。
全国の共通の友人から、あったかい言葉いっぱいのメッセージカードを集めたファイルをどうしても渡したかったのと
松島は私の両親が初めて遠出のデートに行った場所と聞いていて
震災後の松島や瑞巌寺を心配していたので、実際行ってみて確認したくて。
まだ新幹線が復旧していなかったので高速バスで片道6時間かけて仙台へ。
わくわくしてなかなか眠れなくて、やっとうとうとしたらパーキング休憩を繰り返していました。
パーキングでは被災地に向かう自衛隊や医療チームのバスもたくさん止まっていて
ついつい「お疲れ様でーす!!」と言ってしまいました。
東京は桜の時期が終わってしまいましたが、仙台に向かう途中の福島は高速から見える桜も満開ですごくきれいでした。
今は大変な時間を過ごしているけどやっぱり福島は自然もたくさん残っていて
春になったら桜満開になり
大自然からも「大丈夫!!」って言われてるような気持ちになりました。
仙台駅に着いたら寒い中待っていてくれた友達を見つけて嬉しくて駆け寄ってしまいました。
やっぱり実際会って笑顔を見ると本当に本当に安心しました。
地震にあった日のことや
ライフラインが復旧するまでの話を聞いて
改めて怖くなったし、こうして1ヶ月以上が経過して笑顔で会えることに友達に感謝の気持ちでいっぱいになりました。
車で松島に向かい、途中の道のりも海が近くなるにつれて地震の傷痕が所々見られました。
松島は景色は震災前の美しいままでした。
お土産街道は泥だらけで一階部分は商品も撤去されて土嚢が積まれていたけど
1日も早く観光客を迎えたい一心でみんなが掃除をしていました。
瑞巌寺はお寺の手前で津波が止まったらしく、何ていうか「こういうミラクルもあるんだなぁ」って神秘的なものを感じてしまいました。
どんな困難にも負けない力みたいなものをもらった気がしました!
五大堂も無事でした。
みんなの幸せと健康祈願をしてきました。
写真は五大堂からの眺めです。
高台のホテルに泊まって
雨の松島の絶景を見ながら友達といろんな話をして
やっとのんびり足を伸ばしてゆっくりした時間を持てた気がする。
ホテルの従業員のかたや
仙台駅のお土産売り場の店員さんたちも
みんな笑顔で接してくれて復興に向けて一人一人が頑張っている姿が印象的でした。
ぜひぜひゴールデンウィークに仙台や松島に観光に行ってほしいです!!
牛タンのお店も営業してるし駅構内も新幹線復旧前でしたが活気が溢れていました。
帰ってから母の携帯に松島の景色などを送信して
「大丈夫だったよ!!
またお父さんとのんびり旅行してきなよ!」と電話をすると
「お父さんより娘と行きたいわ」との返事にちょっと困ってしまいました(^^ゞ
あいにく雨の二日間でしたが、それはそれで風情があって良かったです。
遊覧船が復活したらまた必ず遊びに行こうと思います!!
時間を見つけて目を通します。
ありがとうございます。
たくさんのコメントの中に避難所でかかわった方々もいて本当に感激しました。
それもこれも広めて、呼び掛けていただいた皆様のおかげだと感謝しています。ありがとうございます。
人と人を介して、本当にびっくりするような方々にも読んでいただけたようで
縁というかつながりも実感しました。
あまりにもたくさんの人に読んでもらって
なかなか次のこの日記が書けずにいたのも事実です。
かなり優しくていい人のイメージが出来上がってしまったようですが
全然そんな出来た人間でなく仕事にも普段の生活にも不満もたくさん抱えています。
被災地に行ったことで
知らないうちにいろいろなことを剥ぎ落としてきたというのもあり
今までハマっていたものや好きだったものも
なんであんなにハマってたんだろう?と考えが変わってしまった面もいっぱいあり、なかなか日常に戻るのも実は大変でした。
もともと災害医療を勉強したきっかけは地元にいたときにフライトナースの資格を取った時にセットで取らないとならないものになっており、
ついでのような感じで勉強をはじめました。
そうして災害医療を学びDMATの資格がもらえたときも
「もしかしたら自分が現役の時にでっかい災害に遭遇することはないんじゃないか」
なんて甘い考えも浮かんでいました。
今回実際被災地で医療活動にあたり、学んできたことは活かされたのかと問われると
胸を張ってYES!とは言えないように思います。
マニュアルをこえた現実というか、マニュアル以上の大惨事でした。
帰ってきてからも医療チームでマニュアルも全て改訂する作業をしています。
今は第3チームが行っており、
医療も急性期から慢性期疾患に重点が置かれているようです。
今後被災地医療に向かうコメントも多々あったので参考にして心構えしてもらえたらと、いくつか・・・。
水道工事がまだ復旧していません。
トイレの衛生面がかなり厳しい状況で気温の上昇に伴い感染の増大が見込まれています。
消毒液も多く持って行き、トイレ掃除は自治会の方や当番の方がしている避難所がほとんどですが
ウィルス除菌の消毒液の使い方の指導も必要になっていきます。
あとは血栓予防のフットケア、心労からの胃潰瘍、メンタルサポートがもうすでに必要になっています。
被災地での薬品不足で見落としがちだったのが交換用のストマ、化学療法の薬品、点眼薬。
これらは自分が向かう避難所と病院にどのくらいの該当患者さんがいるか事前に知っておき予定の五倍は持って行ってください。
歯磨きが十分にできていないので肺炎も合併してきているらしいのでせめてものうがい薬も必要です。
みんな我慢強い傾向も見受けられたので症状も全部言ってこなかったり
ギリギリまで我慢してからの受診や救急搬送のケースもたくさんありました。
なので主訴からもどんどん範囲を広めた診察が大事に思います。
私が次に行くのは6月くらいの予定です。
その頃には求められることも前回とは違ってくるのでまだまだ勉強をしなくては。
復興の手助けには程遠く、自分も限られたことしか出来ないので
ほんの少しでも前回より、より良い医療を提供出来るように日々勉強と仕事に励んでいきます。
あと、コメントの中で
翻訳に関してたくさんありましたが
あのような文章でよければ世界中の皆様にも届けていただくきっかけになればと思うので構いません。
出版に関しては本当に夢のようで嬉しいのですが
ここでこのまま残しておきますので個人ブログとしてここに時々読みに来てもらうだけでお願いしたいです。
もともと友達の友達とかにも読んでもらって
被災地で起きていることや医療チームの葛藤を共有出来たら・・・
そのくらいの考えでアップしたものなので
予想外の反響だけでも嬉しいのと、戸惑う気持ちで精一杯なので本当にすみません。
第3チームも今いろいろな局面にぶつかっているみたいです。
そして変わらず大変なのは医療チームだけでなく
復興に携わるあらゆるセクションのみんなもあの日からずっと同じ大変さとそれ以上の過酷な毎日は続いています。
でも常に気持ちはひとつ。東北地方の復興のため、
被災した全ての人の笑顔のため。
被災地の方々はもう十分頑張ったので頑張らなくていいから元気でいてください。
私達が頑張りますから。
たくさんのコメントありがとうございます。
お一人お一人にお返事を書きたかったのですが出来そうになく、こちらでお礼を申しあげます。
最初友達に『コメントがたくさん入ってるよ』と教えてもらい、
あれ!なんかまずいことを書いてしまったかなって思ってしまいました。
もともとここはあるタレントの大ファンの私のコンサートや舞台の細々とした参戦日記でした。
そんな個人ブログだったので
今回こんなにたくさんのかたが訪問してくださりビックリしています。
著名人の方々もツイッターで広めて下さったとのことですが、ありがとうございますよりも本当にすみません。
いつも記録やレポート、論文を直されるくらいに文章下手なので読みにくかったり文法も間違えまくりだと思います。
最初は友達にメールをつくるのに綴っていた記録でした。
ブログに残せば友達の友達とかにも読んでもらえるかなと思ってアップしました。
写真もなく文章だけのもので分かりにくかったり伝わらないことも多かったと思います。
想像以上にたくさんの
いろいろな各地、仕事、立場の方からコメントもいただき反響にただ驚いています。
そして、たくさんのかたに被災地のことを知って自分が何をするべきか何が出来るかを少しでも考えてもらえたきっかけになっていただけて嬉しく思います。
優しい心を持った人がいっぱいいてコメントを読みながらすごく勇気が出ました。
折れてしまった心にみなさんが優しい薬を塗ってくれたようで、人を助けてくれるのはやっぱり人なんだなと改めて思いました。
ありがとうございます。
私は皆さんからほめてもらうような人間ではありません。
でもこれからいくつもの困難や悲しみに出会ったら
残してもらったコメントを見て頑張れそうです。
被災地から戻った今も、ついつい天気予報でも岩手の天気や気温を真っ先に見てしまいます。
次にまた行くまで時間がありますが、それまでは東京の病院でお仕事を頑張ります。
ふと、陸前高田のことを思い出しては空を見ています。
繋がっていることを確信して避難所のみんなと心はずっとそばにいます。
長いトンネルの遥か向こうに光が見えているので
着実に一歩一歩進んでいると思います。
今日も夕方から夜勤です。
明日は明けなので
もう一度コメントすべて正座して読ませていただきます。
午後2時46分。
東北関東大震災。
被災地の皆様、被災地以外でも様々な影響を受けている皆様、
1日も早く元の生活に向けて復旧しますようお祈り申し上げます。
多くの犠牲者の方々、心よりご冥福をお祈り申し上げます。
今回放置状態だったこちらのブログを一時的にアップしたのは理由があります。
3月15日
私の勤務する病院でも災害対策支援医療チームが発足されました。
救命センターの中から私も被災地に行くことになり、16日から23日までの第一陣のチームで
そこで見たものや
感じたこと、どうにもならないこと、
私なりの文章でお伝え出来ればと思います。
決してきれいごとではなくて
どんどん増えていく被害状況や泣いている人を見て自分には「今」何が出来るか
何をすべきかあの地震の日からずっと考えていました。
この仕事をしている以上、きっと何か出来るんじゃないかとずっと思っていて
オファーが来たときは「これだ!」と思いました。
前日に資料を配られ医療チームでの協議に参加。
荷造りに必要なものの中に財布やお金は不要と書かれていました。
持って行っても使い道はない、食事や睡眠は確保出来ないと思う事、トイレも仮設トイレは被災者優先と。
そして他院のリーダーナースとして指揮をとる方からの挨拶。
『想像以上に現場は壮絶。甘い考えやボランティア精神の人はここでリタイアしてください。
現場ではどんな状況下においても絶対に泣かないこと。
私達は同情しに行くんじゃない。看護、医療を提供しに行く。あなたたちが泣きたい気持ちなんかより
現地の方々はどんなに泣きたいか。こんなに裕福な東京医療チームの涙なんて現地の人には迷惑や嫌味だからね』
へたれな私はもうこの時点でドヨーンとした思いでした。
ばっちりメイクの先輩も名指しで呼ばれて
『化粧なんてして来ないように』
協議が終わって部屋に帰ってからは不安な気持ちを紛らわせたくて
お友達にメールしたり
被災地に行く宣言をすることで自分に気合いを入れていました。
しばらくあったかいものも食べられないと思って
つけ麺も頑張って2玉食べました(´`)
実家も被害を受けていたけど様子を見に行きたくても交通機関が復旧していなくて帰れないし
医療チームとして明日から被災地に行くことを母に電話して
背中を押してもらった気持ちになりました。
『実家のみんなはピンピンしてるから
困っていたり大変な思いをしている人の力になってきな~』と言われてすごく元気になりました。
もちろん出発前夜は何回も荷物の確認をしたり
明日からのことを考えてあんまり眠れず朝を迎えました。
そう、一時的にこちらを再開したのは医療支援に行くからには私が見てきたものや感じたことをみんなに伝えなくてはと考えて
その日その日が終わるたびに携帯メールに日記を残すことを決め、まとめてこちらに載せようと思ったのがきっかけ。
なかなか文章ではあらわせないことばかりに向かい合ってきたので
うまく伝わらないと思いますが・・・・。
3月16日
出発日に自分の行く場所を発表されました。
「あなたは陸前高田」
被害の大きかった岩手県の陸前高田への医療班を告げられ空路で移動。
先輩たちは福島、宮城とそれぞれチームが分かれました。
東京の病院から各チームごと
点滴、薬、包帯、湿布、オムツ、ナプキン、ガーゼ、マスクetc
1万単位の数であらゆる物流手段で移送。
一万個、一万本、一万枚がこの後全然数が足りないことも知らないまま。。。
いつも仕事で着ている白衣ではなくジャージのようなスモッグにNURSE・看護師と印字されたユニフォーム。
空から見ても栃木を越えたあたりかな?
福島上空になると屋根が壊れた家や街並みが増えてくる。原発も見ました。
指揮官ドクターに「海沿いをずっと見ていくと分かるよ」「あれが仙台市内かな」
お友達が住んでいる、何回も行ったことがある仙台の街並みが一変していました。
みんなから「無事」や「大丈夫」メールをもらったけど、
大丈夫じゃないじゃんと
やるせない思いです。
上空から仙台市内の様子を教えてもらうたびに
次第に無口になってく機内。
次第に岩手の三陸地方の街並みに。
足がすくむ思いでした。
まるで水に浸かった焼け野原です。
他人事に聞こえるかも知れないけど「これが日本なんだ、東京からもそこまで離れていないのに」と
これから自分が向かう場所がすごく怖く感じました。
それと同時に
自分は足手まといにならないか不安な気持ちも強くなっていきました。
現地に到着するとそんな不安な気持ちになっていられないくらい過酷な毎日が待っていました。